時子の場合

時子の場合 · 9月 13日, 2018年
 時子にはすぐに分かった。夫の不倫相手は店に来る女性客のひとりだった。店に出入りするたびに、はつらつとした50代の彼女の笑い声が店内に響いた。健気にも、病弱な夫に代わり、保険のパートで生活を支えていたが、そんなことはおくびにも出さず、無邪気そうな笑顔が可愛かった。美人だがおとなしい時子と比べたら雲泥の差だ。だが、現場を押さえたわけでもなく、状況証拠だけである。うなぎのレシートの件でも、言い訳はいくらでもできる。事実、夫は、「夫婦問題の相談に乗ってあげただけだ。」と言った。 時子は夫を信じたかった、なぜなら夫はもうすぐ70歳、それに痛風持ちで、痩せて元気がなかったのだ。夫婦の関係も、ここ何年もなかった。時子は同居する義父母の介護に疲れ果てていたからである。  そうして、彼女の長年連れ添った夫への信頼は、みごとに裏切られた。  彼女の唯一の楽しみは社交ダンスであった。毎週、介護の息抜きもあって土曜の夜は仲間とダンスを楽しんでいた。腕前も大したもので、中高年とはいえ、そのしなやかな動きや軽やかなステップは美貌とあいまって、ファンも少なからずできるほどだった。  その夜は胸騒ぎがして、ダンス教室から時子は少し早く帰宅した。やはり、夫の車は駐車場になかった。とっさに彼女は引き返して、夫の不倫相手の自宅近くに行った。離れた場所で、待っていると、やがて女を乗せた車が目の前を通り過ぎた。夫である。 夫は女の家から少し離れた場所でライトを消して車を止め、女を降ろすとすばやくUターンした。 時子は夫の車が通り過ぎるとすぐに、今家に入っていったばかりの女の後を追って、玄関のベルを鳴らした。何をするつもりだったのか、何を言うつもりだったのかもわからなかった。とにかく、女と対峙したかった。  出てきたのは、女の夫らしかった。時子は一瞬たじろいだ。「こんばんわ。どちらさまでしょうか」と男はいった。「あの、、、」と言いかけたとき、奥から女が出てきて、「あ、いつもお世話になります。こちらSさんの奥様よ」と夫に伝えた。それが、今しがた時子の夫と、別れて自宅に戻ったばかりの女とは思えないほど自然体で、落ち着ていた。時子は面食らった。女からすれば、突然の訪問に逆上して時子に喰ってかかってもいい状況である。  すると、男は「いつも妻がお世話になっております。」と頭を下げた。「あの、なにか?」と男が言いかけたとき、時子は踵を翻してその場を立ち去っていた。いけしゃあしゃあとすました女の態度、何も知らないであろうその夫に自分は何を言えば良かったのか。大声を上げて、「この泥棒猫!!」とでも叫べばよかったのか。けれども時子はそんな惨めな自分をさらけ出したくなかった。  普通であれば、夜9時過ぎ、妻がいつもお世話になっているS商店の女主人がわざわざ訪ねてきたことを男が不思議に思ってもいいところである。もしかしたら、そのあと夫婦は揉めたかもしれなかった。  時子は無我夢中で車を運転した。いったい、自分はなぜこんな目にあうのだろう、私が何を悪いことしたのだろう、自分の取った馬鹿げた行動と、相手から受けた仕打ちで涙が止まらなかった。  自宅に戻ると、一足先に帰っていた夫が玄関で仁王立ちになっていた。いつものように言い訳をする夫を想像していたが、ものすごい形相をしている。そしていきなり、「俺に恥をかかすのか!」と怒鳴った。まさに逆切れである。  時子が女の家から、自宅に戻る間に、その女が時子の夫に電話をかけていたのだ。今しがた、奥さんが自宅に来た。自分の夫が対応した。二人のことをバラしたらどうしてくれる。とでも言ったのだろう。  時子は、初めて夫に抵抗した。早くから女がいることを突き止めていたこと、女にも夫がいること、なぜそんなことをして平気でいられるのか、と。夫は答えた。「お前が、してもいいと言ったじゃないか。」後の家族会議の場になっても、夫は言い張った。「時子が、浮気するなら外でしておいで」と言ったからだと。  「だからといって、お客さまと関係していいことにはならないでしょう。」 「お金はちゃんと払っている」と夫は言った。時子には小遣いも渡さない夫が、その女と月3万円で契約をしたのだという。驚いたことに契約書もあった。開いた口が塞がらない、とはこのことである。どこまで、時子を貶める気なのだろう。  しかし、自分の浮気の原因は、全く相手をしてくれない、時子のせいだと言い張る夫。そして、この期に及んで関係を迫る夫に彼女は嫌悪感をいだいた。  抵抗する彼女に、逆上した夫はついに牙をむいた。言いうことを聞かぬ時子を暴力で押し倒し、首を絞めたのだ。  このままだと、本当に殺される。もう二度とここへは戻らない、、、、、。  つづく
時子の場合 · 9月 10日, 2018年
時子は取るものもとりあえず、突然家を出た。もう二度と夫の顔は見たくなかった。殺されるかもという恐怖が、たえず彼女を襲ったのだ。