1週間もして、時子から電話が来た。夫は居直って相変わらずだが、自分は食事の支度もしないし、寝間も別々にしている、という。2メートル以内に夫が近づかないよう、避けているといった。そして、実は弁護士事務所に相談に行ったという。曰く、時子が相手の女を訴えて、慰謝料を請求することはできる。しかし、同様に女の夫からも時子の夫を訴えて慰謝料を請求することができる。そして、相手の女は無職で、しかも生活保護者で金銭は取れないが、こちらは商売をしており、財産もあるだろうから、相手から慰謝料を300万要求されれば、支払わなければならないだろう。彼女はがっかりした。これまで夫とともに築きあげた財産を、その女にごっそり持っていかれると言われたのだ。全てを捨てて、家を出ていく勇気はなく、家の中はうち沈んだように暗く、不安と猜疑心でとうとう彼女はうつ病になってしまっていた。精神安定剤を服用しているといった。
解決策は見いだせなかった。気晴らしにと、外に連れ出そうとしたが、もちろんそんな気分にはなれずにいた。
気にはなりながらも、何度か連絡をとったが、メールも電話も繋がらず、1年が経った。その間2度ほど自宅を訪問したが、彼女は不在だと夫はそっけなく言った。まもなく、事実かどうか、彼女はついに家を出て行ったという噂を聞いた。
そうして、何ヶ月かが過ぎ、この夏、突然時子から電話があった。彼女は無事だった。携帯電話番号を変えていた。そして、次女に孫が生まれたといった。それから、今年の春に商売は辞めて、自分は近所の介護施設で働きだした、と言った。夫と顔を突き合わせて暮らすより、何かのお役に立ちたいという、彼女の希望に満ちた声は、晴れやかだった。「今度、休みがとれたら、一緒にごはん食べようね」と彼女はいった。見上げれば、台風一過の秋空にイワシ雲が楽し気に湧いていた。
おわり